たおピーの人生メモ

たおピーの人生をメモとして残しておく

低級霊との対話?

みなさんは、「神との対話」という本をご存知でしょうか? 世界的にベストセラーとなった本なので、知っている・あるいは読んだという方もいらっしゃると思います。 私も、30代前半に読みました。 しかし、この本は「心の道場」曰く「神との対話」は「低級霊との対話」だそうです。

いずれにしても『神との対話』は、スピリチュアリズムから見たとき、全く価値のないニセ霊界通信です。 それどころか無知なチャネラーが低級霊に弄(もてあそ)ばれ、からかわれているやり取りを本にした、くだらないものに過ぎません。 まさに「典型的な低俗チャネリング」と言うべきものです。

という具合に、かなり手厳しく批判しています。はたして本当でしょうか? 本当かどうか確かめるためにもう一度読んでみました。 確かに、シルバーバーチと言ってることが違っている箇所が多く見受けられます。

 

以下は、相違点(一部)です。

  • 自分を第一に考えなさい

神との対話

人間関係では、それぞれが自分のことを考えるべきだ。・・・ 最も愛情深い人間とは、最も自己中心的な人間だ。 それはまた、ずいぶん過激な教えですが... よくよく考えれば、過激ではない。自分を愛していなければ、相手を愛することはできない。・・・ これからは自分を中心にしなさい。・・・ 神は、自分を第一に考えることを提案し、勧めている。

 それに対しシルバーバーチ

その隠れた能力というのは何なのでしょう? 私のいう内在する大霊と同じものです。内部に潜む霊力を発揮すれば克服できない困難はないと申し上げている、その霊力です。 これは、本来は日常生活での高潔な心がけと滅私の行いによって霊性を高めることで発揮すべきものです。 俗に堕するほど、反応するバイブレーションも低くなります。反対に自己犠牲の要素が高まるほど、反応するバイブレーションも高まり、内部の神性が発揮されるようになります。

我欲を捨て、他人のために自分を犠牲にすればするほど、内部の神聖がより大きく発揮され、あなたの存在の目的を成就し始めることになります。 真の愛は、人のために尽くし、人を支え、人を慰めんと欲します。愛は慈悲、同情、親切、優しさとなって表現されます。愛はまた、滅私と犠牲の行為となって表れます。

 と、自分を犠牲にして人のために尽くすことが神への道であると言っています。

 

  • カルマの法則はない

神との対話

「因果応報」というのは現実なのですか?・・・ あなたがたずねているような意味では、因果応報、因果(カルマ)の債務ということはない。債務というのは、返済し、償いをしなければならないということだ。 だが、あなたには、何も義務はない。

義務がないんですか? 義務はない。制約も制限もないし、指針もルールもない。あなたはどんな環境や状況にもしばられないし、どんな規範や法律にも拘束されない。 また、どんな違反をしても罰せられないし、違反をする可能性もない。

カルマの法則と呼ばれているものは存在しない。あるとすれば、あなたが経験したがっているいうことだけだ。人を殺す経験をすれば、人から殺される経験をしてみたいと思うだけだ。

 それに対しシルバーバーチは、

利己主義のタネを蒔いた人は利己主義の報いを刈り取らねばなりません。罪を犯した人はその罪の報いを刈り取らねばなりません。 寛容性のない人、かたくなな人、利己的な人は、悲寛容性と頑固と利己主義の結果を刈り取らねばなりません。この摂理だけは変えられません。 永遠に不変です。いかなる宗教的儀式、いかなる讃歌、いかなる祈り、いかなる聖典をもってしても、その因果律に干渉して都合のよいように変えることはできません。 発生した原因は、数学的・機械的正確さをもって結果を生み出します。聖職者であろうと、平凡人であろうと、その大自然の摂理に干渉することはできません。 

と、因果律はあり、いかなるものであろうと変えることはできないと言っています。もし、因果律がないとすれば、神は不平等なかただと、私は思います。

 

  • 神にも神がいる

神との対話

あなたはわたしの身体であるが、わたしもまた、ある者の身体だからだ。 では、あなたは神ではないのですか? いや、わたしは、あなたがいま理解している神であり、女神である。わたしは、あなたがいま知って経験しているすべてを考え出し、創造した者であり、 あなたはわたしの子供である。......だが、わたしもべつの者の子供である。 

 それに対しシルバーバーチは、

大霊は全能です。なぜなら、その力は宇宙およびそこに存在するあらゆる形態の生命を支配する自然法則として顕現しているからです。 大霊より高いもの、大霊より偉大なもの、大霊より強大なものは存在しません。

 と、神より偉大なものは存在しないと言っています。
シルバーバーチは神のことを「大霊」と呼んでいます。

しかし、シルバーバーチと同じようなことを言っている箇所もあります。

 

以下は、同じ点(一部)です。

  • 愛が最高と言っている点

最も偉大な感情、それは愛である。

愛は究極の現実だ。それが唯一であり、すべてだ。愛を感じるということは、神を体験することだ。 至高の真実のなかでは、存在するすべては愛であり、存在したすべて、これから存在するであろうすべても愛である。 絶対の領域に入るとき、あなたがたは愛のなかへ歩み入る 

  •  魂は永遠であるという点

やり直したいと思うのなら、人生は何度でもあるから。

あなたがたは決して死なない。生命は永遠だ。あなたがたは不死だ。決して死なない。 ただ、かたちを変えるだけだ。 

神に関する心の体験はすべて、神は善であると教えている。だが、神について教える者は、神は悪であると語っている。 あなたがたは心では、神を恐れたりせず愛すればいいと感じている。神について教える者は、神は復讐心に満ちている、恐れよ、と言う。 神の怒りを恐れて生きよと言う。あなたがたは、神の存在に震えおののかなければならない。一生、神の審判を恐れて暮らす。神は「正義」だと彼らが言うから。 そして神の恐るべき正義を前にしたら、きっと困ることになるぞ、だから、神の戒律に「従順」であれ。さもないと大変なことになるぞ、と言う

宗教家たちは、・・・あなたがたは罪を背負って生まれた、そして罪のうちに死ぬだろう、本質的に罪人だと。・・・ 自分の行動しだいで「天国へ行ける」と考えるのは傲慢だ、と言う。天国へ行く(救済の)道はただひとつで、 自分の行動とは何の関係もなく、神が神の子を仲立ちとしてあなたがたを受け入れてくださるという恵みによって救われるだけだ、そう教えている。・・・ 神が本質的に不完全な存在を創りながら、完全であることを要求している、完全でなければ地獄に落とそうとすると言う。・・・ これが、あなたが、そしておおぜいが考えている神の行いだ。さあ、ばかにしているのはどちらかな?

  •  聖書には人の手による歪曲がある点

教会のなか、信者の集団のなかには、イエスの物語のどの部分をどのように語るかを決めた人びとがいた。この取捨選択、編集のプロセスは、 福音と聖書の内容を収集し、文字にし、出版するまで続いた。もとの聖書が書かれて何世紀かが過ぎたあとでさえ、カトリック教会の公会議が、 公的に認められている聖書にどの教義と真理を収めるかを決めていた。それに、どの教義が「不健康」あるいは「時期尚早」で、大衆に 知らせてはならないかも決定していた。

  • 人間は神と同じ性質を持っているという点

わたしは自分の無数の部分に(霊の子供のすべてに)、全体としてのわたしがもっているのと同じ創造力を与えた。 あなたがたの宗教で「人間は神の姿をかたどり、神に似せて創られた」というのは、そういう意味だ。これは一部で言われているように 物質的な身体が似ているということではない(神は目的にあわせて、どんな物質的な身体にもなることができる)。そうではなくて、本質が同じだという意味だ。 わたしたちは、同じものでできている。わたしたちは、「同じもの」なのだ!同じ資質、能力をもっている。

  • 地獄がないという点

地獄はあるが、あなたがたが思っているようなものではないし、あなたがたが教えられたような理由で地獄を経験するものでもない。・・・ 地獄はあなたがたが空想するような、永遠の業火に焼かれるとか、際限のない苦悶にさいなまれるとか、そういったものではない。

  • 悪魔は存在しないという点

あなたがたは、それぞれ自分を救済する計画を実践するために、この世にやってきた。救済といっても、悪魔の誘惑から自分を救うという意味ではない。 悪魔などというものはないし、地獄も存在しない。

あなたは「正義」を知るために、「悪」を愛さねばならない、そう言っているように思われるんです。それじゃ、悪魔を抱きしめよ、そう言われるんですか? ほかに、彼を癒す方法があるか?もちろん、ほんものの悪魔などは存在しない。 

シルバーバーチと言ってることが異なっているというだけで、低級霊だとも言えませんし、同じことを言っているというだけで、本物だとも言えません。 確かに、いいことも言っています。 でも、腹黒い政治家やペテン師だっていいことは言います。むしろペテン師ほど口がうまいものです。 そう考えるとちょっとした疑問もあります。

 

以下は、疑問点です。

  • なぜ言い回しがまわりくどく、分かりにくいのか

とにかく読んでいると意味が分からず頭が混乱してきます。 これは、私の理解力のなさが原因かとも思いましたが、アマゾンレビューにも

神様の発言がかなり回りくどいですね。 なんだか著者と珍問答をしているようで、頭が疲れてきます。 著者は人間らしく読者に理解できるような質問を神様に投げてくれるのですが、 神様が難解な表現で返すので、著者同様、読者も混乱してきます。 「要するに」という感じで言いながら、ぜんぜん要約されていない感じ。 さらに抽象的な表現になっている感じ。 

と言っている人がいるので私だけではないようです。 本物の神なら、なぜ単純ではっきりとした言い回しにしなかったのか。 読む人に誤解を与え、混乱を招くようなことがないように配慮するのではないか。

 

  • 世界に問題があり続ける理由が神らしくない

世界が完璧になったら、自分を創造するプロセスとしての人生はそこで終わってしまう。 明日、訴訟がなくなれば、弁護士はやっていけなくなるだろう。明日、病気がなくなれば、医者もいらなくなる。 明日、疑問がなくなれば、哲学者もいらない。 それでは、明日、問題がなくなれば、神もいらなくなるんですね! そのとおり。あなたの言うとおりだ。

 神ともあろうお方が、こんなしょーもない理由で?と思ってしまいます。

 

  • すべてを含む神なら、体験も含んでいるのではないか

神は、自らを体験したいと思ったからビックバンを起こし、自分を分割したとのことですが、「存在のすべて」であるなら、体験も含んでいるのではないか? なぜなら、「すべて」だから。

「存在のすべて」は、自分自身が何かを知ることはできない。なぜなら「存在のすべて」ーーーあるのはそれだけで、 ほかには何もないから。ほかに何かがなければ、「存在のすべて」も、ないということになる。「存在のすべて」は、裏返せば「無」と同じだった。・・・ 「存在のすべて」は、あるのは自分自身だけだと知っていたが、それだけでは充分ではなかった。 なぜなら、「存在するすべて」であることの絶対的なすばらしさを概念的には知っていたが、体験的には知りえなかったから。 そこで、自らを体験したいと激しく望んだ。

 ※ここでいう「存在のすべて」は「神」のことをさしています。

 

  • 身体が永遠にもつとは思えない

扱いかたさえ正しければい、我々の身体が永遠に持つと言っています。魂が永遠なのは分かるが、身体が永遠である必要性があるのか?

あなたがたの身体は永遠にもつように創られたという意味だよ。 永遠に? そう。「いつまでも」ということだ。 それじゃ、わたしたちはいつまでも死なないはずだとおっしゃるんですか? あなたがたは決して死なない。・・・わたしはあなたがたの身体をいつまでももつように創った。 

 

推理

ここで名探偵になった気分で推理してみました。 仮に低級霊だとしたら、目的は何だろう。 単にからかって面白がっているだけなのか。 それだけであれだけ長文の通信を送ってくるものだろうか。 であるなら、よっぽど暇なやつだ。 それとも、組織的にやっているのか。 でも、組織をつくると低級な人ほど、出し抜いたり、仲間割れするものだ。 長期にわたってチームワークを乱さずにできるものだろうか。 単に演説好きな霊が自分の持論を展開しているだけか。 であるなら、通信の内容は置いといて、たいしたもんだ。ごくろうさんと言いたい。

ここで、この本がこの世の人々にどんな影響を与えているかを見てみました。 アマゾンのレビューを見ると、80%の人が5つ星と高い評価をしています。低い評価(星2以下)をしている人は、わずかに7%です。 もし低級霊がからかうつもりで、やったとしたら、本人の思惑どおりにはならず、逆に人類救済の手助けをしている結果になっているようです。 それとも、このあとで大どんでん返しがあるのでしょうか。 あるいは、背後に高級霊がいて本人に気づかれないように導いているのでしょうか? それとも、これもスピリチャリズムの地球人類救済計画の一部で、単に対象が違うだけではないか。 小学生には小学生向けの教科書が、中学生には中学生向けの教科書が必要である。というふうにレベルに応じたメッセージではないか。 また、真理は無限の側面がある。 側面が違うだけで同じことを言っているのかもしれない。

という具合に妄想がどんどん広がってしまってよけいに分からなくなりました。

さて、以上をまとめて結論を出したいと思います。結論「私には分からない」。 また、結論を出す必要もないと思いました。 大切なのは、世間での評判・人の意見に左右されず、自分で確かめることだと思います。 どっちが、良い・悪いでなく、自分にとってどうであるか。 ということで、「誰が言ったかでなく何を言ったか」方式でいくことにしました。 つまり、自分で判断して、いいと思ったことは取り入れるという、いわゆる「いいとこ取り」というやつです。 そんなことをしたら未熟である自分の判断は間違うことがあるのでは?と言う人もいるでしょう。確かにそのとおりです。 しかし、それはその時点では仕方のないことであり、それも自分の成長にとって必要ことだと思います。

 

以下は、いいと思った点です。

「誰かが決めるだろう!わたしはついていけばいい、それでいいんだ!」とあなたがたは叫ぶ。 「何が正しく、何が間違っているか、誰かが教えてくれるだろう!」 宗教にこれほど人気があるのも、そのためだ。どんな信仰であろうと、堅固で一貫していて、信者に 対する期待が明快で厳しければ、それでいいのだ。そういう宗教が与えられれば、ひとは何でも信じ てしまう。どんな奇妙な行動でも信念でも、神への信仰にされる可能性があるし、そうされてきた。

 確かに他人・メディア・本などから仕入れた情報を鵜呑みにして自分で考えない人が多いような気がします。

 

何をするにしても、レッテルを貼ったり、決めつけたりするのは避けなさい。それぞれの環境が贈り物 であり、それぞれの経験が隠された宝なのだから。 

 食わず嫌いということわざがあるように、自分では食べたことがないくせに嫌っていることってありませんか? 例えば職場の○○さんってこうでああでという悪口を聞かされていたAさん。○○さんのことを嫌っていました。 Aさんは○○さんとは話したこともないのに。 例えばテレビで○○がけしからんと言うと、そう思っていたり。

 

自らのなかに犯罪の原因を見いだしたとき、ようやく犯罪の温床となる原因の治療を始めることができる。

これには、すこぶる納得させられました。 私も含めて、世界が今のようになったのは自分のせいだと思っている人はいないと思います。 そうではなく、自分の中にあるこの、もっと金が欲しいという気持ち、人を羨む気持ち・人を妬む気持ち・人を恨む気持ちが 世の中に強盗・強姦・戦争・殺人を生んでいるんではないか。世の中で起きている、いわゆる悪いことが、 自分とはまったく無関係であると思うこと、これだといつまでも世の中が良くならないのではないかと思います。 まずは、自分の気持ちを変えること。たった一人の救世主が来て世界を救うのではなく、世界中の人々の意識が変わることによって 世界も変わるのではないかと思います。

最後に、こういった霊界通信を読むときの注意点をまとめておきます。 霊界通信に限らずどんな本・どんな話・またテレビを見るときにも当てはまることだと思います。

あなたは、わたしの述べることをご自分の理性に照らして、納得がいけば受け入れてください。 もしもわたしの言うことにあなたの常識が反発すればそれは拒否なさることです。わたしに限りません。いかなる霊媒の口から出たことでも、 霊的というにはお粗末すぎると思われれば、それは受け入れる必要はありません。

善と悪は、何を規準にして判断したらよいのでしょうか。人間一人ひとりの問題でしょうか、それとも霊的法則の中に細かく規定されているのでしょうか」 一人ひとりの問題です。一人ひとりの霊的自我の中に、絶対に誤ることのない判定装置(モニター)が組み込まれています。 これまでに何度となくこの問題が持ち出されましたが、わたしには一貫して主張している見解があり、それを変更する必要はみじんも認めません。 これまでに獲得した霊的知識を総合的に検討した結果として、わたしはこう申し上げております。すなわち、正常な人間であるかぎり、 言いかえれば、精神的・知的に異常または病的でないかぎり、自分の思考と行動を監視する、絶対に誤ることのない装置が正常に働きます。 いわゆる道義心です。考えること、口にすること、行うことを正しく導く、不変の指標です。それが、いかなる問題、いかなる悩みに際しても、 そのつど自動的に、直感的に、そして躊躇なく、あなたの判断が正しいか間違っているかを告げてくれます。 

 

霊格の程度と正邪の見分け方 霊の身元の証明は多くの場合、とくに高級霊の場合は二次的な問題でほとんど意味がないとしても、その霊が善霊か邪霊か、 高級か低級かの判断はきわめて重大な問題である。というのは、その述べるところが一体何という名の霊からのものであるかは、 事情によってはどうでもよいことであるが、その内容つまり何を述べているかということは、それを送ってくる霊の信頼度を計る唯一の手掛かりとなるからである。

今も述べたように、通信霊がいかなる霊格の持ち主であるかは、人間の人格を推し量る時と同じように、その言っていることによって判断しなくてはならない。 かりに見知らぬ人々から二十通の手紙が届いたとしよう。その一通一通について文体と内容その他、こまごまとした特徴から、 どの程度の人物からのものであるかは大よその見当がつくはずである。霊からの通信についても同じことが言える。

一度も会ったことのない霊からメッセージを受け取ったら、 その文体と内容から大よそどの程度の霊格の持ち主であるかの見当をつけるべきで、立派そうな名前のサインがしてあるからというだけで有頂天になってはいけない。 霊格はその言葉に表れる--これは間違いない尺度であって、まず例外は有り得ないと思ってよい。 高級霊からのメッセージはただ内容が素晴らしいというだけではない。その文体が、素朴でありながら威厳に満ちている。 低級霊になると、やたらに立派そうな派手な用語を用いながら、訴える力がこもっていない。

用心しなければならないのは、知性である。ふんだんに知識をひけらかしているからといって高級霊と思ってはならない。 知性は必ずしも徳性ないし霊性の証明ではないのである。非常に霊性の高い霊でも哲学的には深いことを語らないことがあるし、 博覧強記で、知らないものはないかに知識を披露しても、霊格の低いことがある。 そうしたことから推察できる事実として、通信霊が地上時代に著名な科学者だったからといって、その後もその分野でますます高度 の知識を蓄えているとは限らないことである。霊性の発達が遅れているために相変わらず地上的波動から脱け切れず、 地上時代に名声を博した理論をいつまでも後生大事にして、それが進歩の足枷となっていることに気がつかない。 もちろん全ての科学者がそうだと言うつもりはない。ただ、これまでにそうした霊を数多く招霊しており、 地上時代の名声は必ずしも霊性の高さの証明とはならないことを指摘しておくまでである。

繰り返すが、霊的通信を受け取った時は、内容的に見て理性と常識に反するものはないか、文章や言葉に品位があるか、 偉ぶったところや尊大な態度は見られないか、といった点を徹底的に検証しないといけない。そうした態度に出られて、 もしも機嫌を損ねるようであったら、それは低級霊・未熟霊・邪霊の類いと思って差し支えない。 高級霊ないし善霊は絶対に機嫌を損ねないどころか、むしろそうした態度を歓迎する。何一つ恐れる必要がないからである。

 もちろん、シルバーバーチが信頼するに値するかはあなた自身で確かめてくださいね。